-マルコに学ぶ➉- 「人を汚すもの」
聖書: マルコの福音書7章14-23節(新p80)
メッセンジャー:高江洲伸子師
かつて、京都動物園に行った時のことです。「動物の中で最も危険」という説明書きが大きく書かれてある檻のついた標本のようなボックスが置かれてありました。「なんだろう」と思って思わず檻の中を見ようとすると、中には何も入っていなくて、ネームプレートに「人間」とだけ書かれてあったのです。
イエス様は、「人から出て来るもの、…それが人を汚すのです。…すなわち人の心の中から、悪い考えが出て来ます。…」(20-23)と言われましたが、人間には一皮むけば、何が出て来るかわからない、得体の知れないところがあります。
マルコの福音書7章は、パリサイ人や律法学者が、手を洗わないでパンを食べている弟子たちを見て、「なぜ、昔からのユダヤの習慣通りにしないのか」とイエス様に詰め寄るところから始まっています。その問いに対して、イエス様は、表面的、形式的な信仰のむなしさと、その奥に潜む偽善性を鋭く指摘し、群衆に向かって、「みな、わたしの言うことを聞いて、悟りなさい。」(14)と、神の言葉の真意について話されたのでした。
「聞く」ことと、「悟る」こと
ここでの「聞く」とは、イエス・キリストのことばを聞くことであり、「悟る」とは、神のことばの隠された真の意味を理解することですが、イエス様も「いのちを与えるのは御霊です。…わたしがあなたに話してきたことばは、霊であり、またいのちです。」(ヨハネ6:63)と言われている様に、霊なる主のことばは、聖霊の助けなしには、悟ることも理解することもできません。
また、「悟る」という動詞は、「よく注意し、よく考え、よく調べて、よく理解する」という意味にも繋がっていて、人が真に神のことばを「悟る」時、その人は神のご計画とみこころ、そのみ旨と目的を知ることになるので、真に神の言葉を悟った人は、生き方の方向性もまた定ってゆきます。(※ヨハネ16:13)
きよめの儀式のむなしさ
7章の始めで、パリサイ人が指摘した「手を洗う」という内容は、単なる衛生上のことでなく、ユダヤ教でのきよめの儀式のことを指していました。ですから、ここでのイエス様の返答もまた、きよめの儀式が人をきよめるかどうかという、きよめの本質に触れるものだったのです。日本でも、おはらいをしたり、塩をまいてきよめようとする行為が容易に私たちの生活や思いを支配していることがありますが、人の汚れがおはらいや塩をまくことによって、本当に清くなるのでしょうか。ユダヤ教では清い食べ物と汚れた食べ物とがあり、キリストは、外側から入ってくる食べ物が人を汚すのではない(15)と、今まで習慣的に清い清くないと判断してきていた事柄の内容に鋭く迫ります。
では、なぜ、外から入ってくるものが人を汚すという論理がおかしいのでしょうか。それは、口から入ったものは、消化した後出てゆくものなので、その食物が心にまで入り、その心まで汚してしまうわけではないからです(18-19)。同様に、人の内心に潜む汚れを、水で洗うという外面的な儀式で、きよめようとすることもまたおかしな話です。そこで、イエス様は、心の中から出てくる汚いものこそ要注意であると指摘したのでした(20)。
「人を汚すもの」
そこで、私たちもまた、「人の心の中から」を「私の心の中から」に置き換えて21-23節を読んでみれば、自らの内側がどのような状態であるかを知ることができます。(以下、佐藤彰著「信仰生活入門」から)
「ここでの罪のリストで問われていること、例えば、殺人や姦淫の行為を実際に実行したことがあるかないかを問うていのではありません。そして、社会的に発覚して法律によって罪に定められたことがあるかないか、という事でもありません。たとえ人殺しをしたことは無くても、心の中で、その一歩手前まで思い描いたことはないか、心の中で、すでに人を殺したり、姦淫を犯しているのではないか、ということです(Ⅰヨハネ3:15,マタイ5:28)。人殺しの心、姦淫の心が問われているわけです。」
聖書のテーマがここにあります。聖書は、人間の内なる汚れ、罪からの解放と救いの道が描かれている神様からの手紙です。本旨は「御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます」(Ⅰヨハネ1:7)です。けれど、残念なことには、その内容を理解している人は多くありません。なぜでしょうか。ヨハネは「人々が光よりも闇を愛した」(ヨハネ3:19)と言い、ヤコブは「あなたがたは、求めないから得られないのだ」(ヤコブ4:2口語)と言っているように、人々が心から求めず、聞こうとしないので、「悟る」ことができないでいるからです。