「わたしに何をしてほしいのですか」
聖書:マルコの福音書10章46-52節(新p89)
メッセンジャー:高江洲伸子師
バウンズ著「祈りの力」から 「盲人バルティマイの記事は多くの点で注目すべきものです。イエスは初め、彼の言うことをお聞きにならなかったように見えます。群衆は彼が声を上げるのを𠮟りつけました。…にもかかわらず、バルティマイは叫び続けました。彼がますます叫んだので、ついにイエスは彼に向かいます。」 続いて、バルティマイの信仰の姿勢から更に教えられましょう。
V47「彼は、ナザレのイエスがおられると聞いて、『ダビデの子イエス様、私をあわれんでください』と叫び始めた。V48「多くの人たちが彼を黙らせようとたしなめたが、『ダビデの子よ、私をあわれんでください』とますます叫び続けた。」
バルティマイはなぜこのようにイエスがおられることを知って叫び出したのでしょう。考えられることは、8章に書かれていた、ベツサイダで目の見えない人の目をイエス様が見えるようにされた出来事を耳にしていたので、自分の目も見えるようにしてくださるに違いないと思ったから。あるいは、イザヤ書35:5の「そのとき、目の見えない者の目は開かれ、耳の聞こえない者の耳は開けられる。」他29:18等の旧約聖書のみ言葉の成就の時が来たと思ったからからかもしれません。いずれにしてもバルティマイは、主イエスが来られるのを待ち望んでいたことは確かです。「信仰は聞くことからはじまる」とありますから、私たちもまた、聞こえてくる情報を、どのように聞き受け止めているかどうかで、日常生活の中でも神様の栄光の御業に与る者とされるかどうかが決まる事を知りましょう。
V50「その人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。」
バルティマイは、イエス様に呼ばれた時、上着を脱ぎ捨てて、躍り上がってイエス様のところに来ました。「上着」は道端に座って毎日物乞いをする人にとっては唯一の資本であり財産、無くてはならない必需品でした。けれど彼はイエス様の招きの声を聞いた時、惜しげもなくそれを手放して主の御元に来たのでした。沢山の人がイエス様の元に来ます。イエス様の教えには感服しながらも、悲しみながら主のもとを立ちさっていく人も少なくありません(マルコ10:22)。こうした中で、バルティマイの主に向かう姿勢は類を見ない程に際立っていました。
そのバルティマイにイエス様は尋ねられました。V51「わたしに何をしてほしいのですか」と。考えてもみてください。主の愛弟子であったヤコブとヨハネが望んだものは、イエス様の右と左に座るという高い位でしたが、盲人バルティマイが望んだのは、「目が見えるようになること」だけでした。イエス様はヤコブとヨハネの願いには答えられませんでしたが、道端で物乞いをしていたバルティマイの願いには答えられたのです。
私たちはどうでしょうか。今イエス様から「わたしに何をして欲しいのですか」と尋ねられると、どのような返答をすることでしょう。権力、財力、評判と、思わず世につくものが内から溢れ出て来ないでしょうか。
この時イエス様は、V52「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救いました」と仰られただけでしたがバルティマイの目は開かれました。これは、バアルティマイの熱心な信仰が彼を癒したというこのなのでしょうか。決してそうではありません。バルティマイを癒されたのはイエス様です。バルティマイはただ信仰の手で神が授けて下さったものを受け取っただけなのです。
「信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです(へブル11:1)。考えてみてください。もし、視力を失っていたバルティマイがイザヤのみ言葉通りにその日が来れば、目の見えない自分の目は開かれると確信していたと仮定して、イエス様の到来こそがその日でると思っていたとするならば、バルティマイは盲人として産まれてきていたかもしれませんが、イザヤが神のことばを聞いた時、またイザヤ書に記した時、彼の開眼はすでにそこ(イザヤ35:5)にあったとも言えます。勿論これはたとえてのことですが、バルティマイでなくても同じことが言えます。私たちが神と人との契約の書である聖書のみことばを信じて、主がお語りになったことは必ずなると信じる信仰があるならば、信仰の手でそれを受け取りにゆくことができるのです。「わたしに何をしてほしいのですか」と問われる主は、私たちの信仰を増し加えることによって、真に神が与えようとしているものを確信させて、受け取らせてくださるお方です。バウンズ師が書いている様に、バルティマイは始め叫んでも応えられず、むしろ、群衆は叱りつけましたが、その事は彼がさらに叫ぶ(更に真に必要としているものを確信させ追い求める)思いにもなっていったのです。(マタイ15:21-29,他)
信仰により、主から新たな光の世界に入れられたバルティマイは、「道を進むイエスについて行きました」(52)。御足の跡に従っていったのです。聖霊を受けた弟子たちも、そこで初めて真に謙った主イエスの道に倣い従ってゆくものとされました。聖霊による新たな光の世界を知った弟子たちが主の弟子としての大路を歩んでいったように、この日を機に彼は神の栄光の道を歩み始めたのです。