7月3日礼拝メッセージ

「土の器であっても」

聖書: コリント人への手紙第二4章7-18節(新p359)

メッセンジャー:高江洲伸子師

私の故郷は岡山県の備前市です。「備前焼き」の名前をご存知の方もおられるかもしれません。特に伊部という町は、JRの駅を降りると、あちらこちらに窯の煙突が見えて、焼き物の里を印象付けます。幼い頃、備前焼きに使える土が敷地内から出て、レストランのオーナーになった人や、庭に転がっていた壺を鑑定して数百万円になったという話も聞いたことがあります。備前焼きは土と火の芸術と言われ、素焼きの壺に火がどのように焼き付いたかで、その価値が決まると言われています。作品の出来栄えの素晴らしさで、人間国宝になる人もいれば、無名のまま生涯を終わる人も少なくありません。結果として、備前焼きは誰の手による作品であるかで価格が決まります。では私たち人間の価値はどこで決まるのでしょう。人間の真価は、その人が内に何をもっているかで決まるとも言えます。
 
使徒パウロは、Ⅱテモテ2:20で「大きな家には、金や銀の器だけでなく、木や土の器もあります。ある物は尊いことに、ある物は卑しいことに用いられます。」と言っています。これは、決して金や銀の器が尊いと言っているのではありません。21節には、「だれでもこれら(不義)から離れて自分自身をきよめるなら、その人は尊いことに用いられる器となります。」と書かれていますから、不義から離れ、きよめられた器は、尊い神様の御用に用いられると言うのです。
  コリント教会と使徒パウロ
 コリント教会は、パウロが第二次伝道旅行の中で設立され、都会にあって、大教会に成長しました(使徒18:1-18)。けれども、教会内では様々な問題が噴出していることを耳にしたパウロは、神様に喜ばれる正しい教会の在り方を伝えようとしてこの手紙を書きました。それだけでなく、パウロの使徒権を批判する人たちがいて、その批判に答え、働き人の真の姿を知らせることにより、鋭く福音の本質を伝えているのです。
➀ 7-12 奉仕の源と力
米田豊師は「新聖書講解」で、福音宣教者の中にある宝であるキリストの命について次のように記しています。
“ 「私たちはただ<土の器>のように弱く卑しいものであるが、「神の栄光の輝き」であるキリストが内住されることによって、<測り知ることのできない力>をもって奉仕することができる。この力は自分から出る力でなく、神の力である(7)。私たちはただ土の器にすぎないことを思って、へりくだるべきである。<参考/士師記7:16,19ギデオンの精兵の角笛と松明の入った空の壺、彼らは、壺を打ち砕いて火を輝かした> 神の力は土の器である私たちを通して人々に働く。私たちが人々を恵みに導き、またいのちを得させるのは、私たちが十字架を負い、主の苦しみにあずかる程度に比例する。土の器に宝を持つ者は、内外から来るどのような苦難や迫害にも勝利を得て、困窮失望することなく(8,9)、いつどこにあっても、十字架を負うてイエスの死を味わい、殉教の精神をもって主に仕える<10,11。この「死」とは「死につつある」という現在形で、時々刻々主の死を味わうこと、すなわち殉教の精神に満たされて十字架を負うことである)。その結果、人々を生かし(12)、また私たち自身の身においても、キリストの復活のいのちが現れるのである”
② 13-18 苦難の中で現われる神の栄光
主イエスは受難と死において栄光を現わされました。それゆえ、キリスト者が受ける神の栄光もまた、苦難を通して現わされてゆきます。奉仕に与る私たちにはどこか欠けがあり、弱さがありますが、弱さは決して奉仕妨げとはなりません。神様は弱さの中でこそご自身の栄光を現わされます。11:23-28にはパウロの伝道者生涯における戦いがどのように過酷なものであったかが記されていますが、人間的なものが剥奪されていく中で、「内なる人は日々新たにされています」(16)
と証しするのです。「十字架がなければ冠はない」という如く、苦難が無い所で神の栄光が輝かされることはなく、逆に、栄光に至る道は、実は、苦難の中に備えられていることを、神様に従った人たちは知らされるでしょう。地上の苦難は「思い永遠の栄光」(17)を垣間見る窓とも言えます。
 備前焼きの真価は、どのように火が通った器であるかで決まります。粘土が陶器士の手に握られ、ろくろの上で錬られて目的に沿った形が出来上がり、更に窯に入れられます。窯の中での火の通り具合で器の真価が定まります。私たちキリスト者もまた、神の御手の中で造られ、試練という炉に入れられ、不必要なものは焼き尽くされ、火が通されて神の栄光を現わす器とされてゆくでしょう。 

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