6月12日礼拝メッセージ

「回復のきざし」

聖書:エゼキエル書36章37節-37章6節 (旧p1481

メッセンジャー:高江洲伸子師

「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。」(ルカ1:35)天使の御告げの如く、御子の誕生は聖霊によるものでした。ロマ書3:11には、「イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださいます。」と書かれています。イエス・キリストの死と復活もまた、聖霊によるものということです。「死」から「命」に甦らせる計り知れない力がご聖霊にはあります。同様に、「いと高き方の力」である「聖霊の力」が私たちに臨むとき、私たちの日常にもまた新たな変革の時が訪れます。

イスラエルへの回復の預言

 エゼキエル書36章には、「だが、おまえたち、イスラエルの山々よ。おまえたちは枝を出し、わたしの民イスラエルのために実を結ぶ。彼らが帰って来るのが近いからだ。」(8)等、バビロン捕囚後、国が崩壊し、廃墟と化したイスラエル国への回復の預言が書かれています。

注目したいのは、37節を口語訳聖書は、「主なる神はこう言われる、イスラエルの家は、わたしが次のことを彼らのためにするように、わたしに求めるべきである。すなわち人を群れのようにふやすこと、」と訳されているのに対して、新改訳2017では、「わたしはイスラエルの家の求めに応じ、このことを彼らのためにする。わたしは人を羊の群れのように増やす」と、すでにイスラエルの祈りに神様が聞いて応えようとしているように訳されていることです。これは、へブル語の未来形はすでにそのことは成ったものとして捉える特徴があるからです。たとえば、イザヤ43:19「見よ、わたしは新しい事をなす。やがてそれは起こる」(口語)の未来に関する預言を、新改訳2017では、「今、それが芽生えている。」と、すでに起こってきていることとして訳されているのと同様です。

そして、事実、この時エゼキエルを通して語られた主の言葉は、現代に於いても現実に起こってきていることなのです。1945年に突如イスラエル国が建国され、36章に描かれていた「荒れ果てた廃墟」(4)になった地が建て直され、何もなかったところに今は都市が誕生しています。1948年建国時86万人だった人口は、2022年4月で952万人(The World Economic Outlook database)にもなり、そして、今もなお増え続けています。イスラエルの国に対して語られたこの預言は今も成就しつつあるのです。

イエス・キリストによる新創造の御業

神様が成される回復の方法は、きよい水ですべての「汚れ」と「偶像」が聖別(25)され、「新しい心」と「新しい霊」が与えられる(26)ことによって成されるというのです。Ⅱコリント5:17の「だれでもキリストにあるならばその人は新しく造られたものである」と一致します。イエス・キリストの十字架による新創造のみ業が今も私たちの中に、現実に成されています。そして、霊的イスラエルとされた私たちのうちに、「わたしの霊を…授けて、わたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守り行うようにする。」(27)と語られています。

 37章でエゼキエルは枯骨の谷へと導かれていますが、新創造の御業とこの出来事は深い関係があります。古骨の谷でエゼキエルは神様から、「これらの骨に預言せよ。」(4)と命じられています。「預言」とは、「神のことば」である聖書のことばを語る事を意味しています。エゼキエルが主の命じられるまま骨に向かってみ言葉を語ると、「なんと、ガラガラと音がして、骨と骨とが互いにつながった。」(7)、「その上に筋がつき、肉が生じ、皮膚がその上をすっかりおおった。」(8)と死んでいるはずの骨が段々と回復していっている様子が描かれています。それは丁度、創世記2:7における人間の創造とも似ています。そして、創世記でも、エゼキエル書の枯骨の谷でも、共通しているのが、形が出来上がった像に神の息が吹きかけられて、人は真に生きたものとなっているところです。(創世記2:7,エゼキエル2:5,9,10) 

聖霊による一新

今私たちは、きよい水である御子の十字架の血潮で、罪汚れと偶像から聖別され、ペンテコステで弟子たちが受けた「炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。」(使徒2:3)、その霊を受け、霊肉共に新創造の御業に与ることができます。

「すっかり干からびていた骨」(37:2)、それは、キリストによる新しい命を知らない人たちの裸の姿です。その人たちに私たちがみ言葉を語ってゆく時、福音に対して固く心を閉ざしていた人の心が動き始め、回復のきざしが見え始めます。そして、徐々に肉が生じ、皮膚が覆い、人の形になってゆき、やがて、神様が創造してくださったときの様にまで回復されてゆきます。

考えてみてください。干からびた骨でさえこのように元の身体を取り戻してゆくならば、私たちの体の隅々にできた種々の遺物、や欠けをも回復させないことがあるでしょうか。使徒行伝で、聖霊を受けたペテロやヨハネは、自分の足で足ることが出来ない人に向かって、「ナザレ人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」(使徒3:6)と言ったところ、その人の足とくるぶしは強くなり、踊り上がって立ち、歩きだしたのです。霊肉共に救いと癒しの御業は始まってゆきます。

私たちがみことばを語り、聖霊の助けを祈る時、不可能と思えたことも、可能になることを使徒行伝は、聖霊を受けた弟子たちの足跡を通して私たちに語りかけています。ペンテコステで降ったご聖霊の風が、私たちの教会に、一人一人の上に、家庭に、地域に、全世界に吹きぬけることを更に祈り求めたいものです。

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