「恐れないで、ただ信じていなさい」
-マルコの福音書に学ぶ⑧
聖書:マルコの福音書5章21-36節
メッセンジャー:高江洲伸子師
マルコの福音書1~10章では、ガリラヤ湖周辺で成されたイエス・キリストとお弟子たちの宣教の様子を知ることができます(「ガリラヤ伝道」とも言われている箇所です)。3章~4章では、「種」のたとえを通して、信仰の育ってゆく様が語られました。続いて、(先週)イエス様がお弟子たちをガリラヤ湖上で、信仰の実地訓練をされたことを知りました。今朝の5章では、実際にイエス・キリストによる信仰による癒しと救いの御業に与った2人が登場致します。
会堂司ヤイロ
ヤイロの娘は危篤状態の中にありました。ヤイロはさいごの望みを抱いてキリストのもとに来て、「足もとにひれ伏し」(22)、「私の小さい娘が死にかけています。娘が救われて生きられるように、どうかおいでになって、娘の上に手を置いてやってください。」(23)と、懇願致しました。
長血をわずらっている女性
ヤイロとイエス様は、危篤の娘の待つヤイロの家に急いでいる最中。その後を追う大勢の群衆がそこにはいました。その群衆の中に、12年間長血を患っている一人の女性がいました。「彼女は多くの医者からひどい目にあわされ、もっている物をすべて使い果たしたが、何のかいもなく、むしろもっと悪くなっていた」(26)のです。
救いの御業
この2人の共通点は、どちらも、この世で手を尽くすべきことはしたものの、回復の見込みが得られず、キリストのもとに来た人たちでした。
ヤイロは「娘が救われて生きられるように」(23)と願い、長血の女性は、「あの方の衣にでも触れれば、私は救われる」(28)と思ってキリストに近づいてきました。彼らはただ癒されることだけでなく、主の救いを願ってキリストのもとに来ている人たちでした。
12年間も出血が止まらないでいることを、人に知られないように、恥ずかしさを覆うようにそっと隠れて、群衆に紛れ込みキリスト近づいたところが、「イエスの衣に触れた」(28)その時、「すぐに血の源が乾いて、病気が癒されたことをからだに感じた」(29)と記されています。
キリストは、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。」(34)と言われましたが、「救い」とは、ただ病気が治った、とか、癒やされたという意味合いだけに留まらず、「救い主キリスト」による、人間の全存在に関わる「救い」を表しています。この時、キリストとこの女性は1対1で人格的に出会い、救われ、癒やされたのです。この女性がキリストに触れたそのことは、丁度、夫婦が一つになると、夫の持ち物を妻が共有できるように、キリストの中にある命をも共有したことを表わしています。
恐れないで、信じる者へ
そこへ、「お嬢さんは亡くなりました」と、ヤイロの家から知らせが届きます。その時、使いの者は、「これ以上、先生を煩わすことがあるでしょうか。」(35)と付け加えていますが、私たちも、イエス・キリストの成されることに、勝手な判断を付け加えることを注意しなければなりません。それは、救いの可能性を、自分から閉じることにもなるからです。「もう、私は変わりようがない…祈っても無駄だ…」「この病はあの名医が言っている以上の回復は期待できない」等と人間的な判断で信じることを止めてはいけません。どのような時でも、永遠に通じるイエス様をお招きすることに、遅すぎることは決してありません。知らせを聞く会堂司の側で、キリストは、「恐れないで、ただ信じていなさい」とだけ語られて、ヤイロの家に行く足を決して止められませんでした。
私たちもまた、不可能を可能にしてくださるイエス様のみわざに信頼して、信仰の一歩を踏み出したならば、自分やまわりの人の現実的なサジェスチョン(提案、示唆、暗示)に信仰が揺さぶられないようにしなければ、信仰の実を見るまでには至りません。イエス様は同じ言葉を聞きながらも、「恐れないで、ただ、信じていなさい」と言ってくださっています。
この女性は、感謝とおそれをもって、自分の状態をイエス様に告げました。そして、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。」(34)との癒しと祝福のことばをキリストから受け、ヤイロは、娘の死を告げられたにも拘らず、キリストを娘のもとにお連れし、娘の勝利の生還を得ました。恐れないで、ただ信じる者へと歩み出しましょう。そして歩み出したならば、その信仰の歩みを止めてはなりません。