3月27日 礼拝メッセージ

受難節-「私の願いではなく、みこころを」 

聖書:ルカの福音書22章39-46節 

メッセンジャー:高江洲伸子牧師

ドイツの有名な神学者,マルチン・ルターは、「たとえ明日、世界が滅亡しようとも今日私はリンゴの木を植える」と言いました。いつ何が起こってもおかしくない時代に、今私たちは立たされています。明日、巨大地震が、はたまた、ミサイルが飛んでくるかもしれません。と、するならば、最後の時をどうすごすか、一度考えてみては如何でしょう。

 「いつものように」祈られるイエス様
 主イエスはさいごの時をどのように過ごされたのでしょうか。十字架に掛かられる前夜、お弟子たちと最後の晩餐をされ、手ぬぐいを腰に巻いて弟子たちの足を洗われたことはよく知られています。それから、「いつものようにオリーブ山に行かれ」(39)、「いつもの場所」(40)で「ひざまずいて祈られた」(41)のです。イエス様にとって、「祈りの場所」は特別な時だけゆく特別な場所ではなく、平凡な日常生活の中にいつもあったのです。イエス様は、日々み父のみ顔を拝し、み声を聴きつつ歩まれていましたから、地上で過ごすさいごの時もまた同じように、いつもの祈りの席につかれたのです。
 では、十字架を前にしたさいごのお祈りは、どのよう祈りだったのでしょうか。
それは、「主よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」(42)という祈りでした。
 振り返って、私たちの祈りはどうでしょう。ルターは、「全てのことは願うことから始まる」とも言っています。私たちもまた、聖書のことばを信じて祈り求めます。そして、神様もまた信じて求める人の祈りを祝福して下さいます。苦しみや困難の中で神に助けを求めるのはごく自然な事です。
けれど、神様を自分の願いを叶えてくれる方として見ていると、神様の存在が、まるで、携帯の音声機能のように、必要なことを告げると答えが返ってくるロボットのような存在になっていたり、まるで、私たちの願いを叶える僕のように、立場が逆転している事はなかったでしょうか。
 聖書は言っています。「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに添えて与えられます。」(マタイ:33)と。神の国、神の義である神の御思いを第一におくとき、必要が全て添えてあたえられる。実は、これこそが、人が神に祈る時の基準ともいうべき、不可欠なものなのです。
 「神は人をご自身のかたちとして創造された。」(創世記1:27)と創世記に記されていますが、そうであるならば、私たちに何が必要であるかは、造られた方こそが一番ご存知のはずです。人の必要の全ては、すでに創造者のみ旨の中にあることをまず知らなければなりません。
 主イエスが十字架を目前にして祈られた祈りもまた、人の全ての必要をご存知のお方に祈っているゆえ、「主よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように」と、ご自分の願いがある中にあっても、「しかし、わたしの願いではなく」と、主のみこころを第一にする祈りだったのです。
 
「苦しみもだえて」祈られるイエス様
「イエスは苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。」(44) その祈りは、苦しみもだえる祈りでした。
「ゲッセマネ」はへブル語で、オリーブ油絞りの用具の名前だそうです。イエス様は、迫りくる十字架の死を前にして、オリーブ油を絞りだすかのように、汗が血のしずくのように地に落ちる中、苦しまれ、み父のみ旨を伺いました。イエス様が十字架の杯を回避する以外に、人類救済の方法はなかったのでしょうか?なかったのです。罪の汚れの中にどっぷりと浸かっている人類の命を救う方法は、罪なき方が、人類の罪を全て被って犠牲となり、十字架で身代わりの刑罰を受けて下さる。旧約聖書で表されている様に、罪の犠牲の小羊としてご自身が屠られる他に、救いの道は神のみ旨の中にはなかったのでした。御子は、祈りの中で再度それを確認され、自らの意志に手をかけて、苦き杯を飲み干す如く、主の差し出された犠牲の道を、みこころのままに歩まれたのでした。(ヨハネ3:16)

アブラハムは子どものイサクを「全焼のささげ物として献げなさい。」(創世記22:2)と御声を聴いた時み言葉に従って(み旨に添って)イサクを連れて出かけました。アブラハムが刃物を手にしてイサクに振り下ろそうとした時、「あなたが神を恐れていることがよく分かった」(創世記22:12)とみ声がかかり、主が用意されたイサクに変わる生贄の動物を見出したのでした。けれどイエス様は罪の身代わりになり得る唯一のお方で、人類救済の道は他になく、代わりがありません。私たちもまた、「私の願いではなく、みこころがなりますように」と祈る時、イサクを献げたアブラハムの祝福を受けるだけでなく、御子を十字架に捧げられたみ父のみ旨と一つとされ、その祈りは神の御前に受け入れられ祝福されるのです。

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