「新しい生き方」
-マルコの福音書に学ぶ–⑤
聖書:マルコの福音書2章18-22節
メッセンジャー:高江洲伸子牧師
断食と花婿なるキリストとの関係
キリストは、「ヨハネの弟子たちやパリサイ人の弟子たちは断食をしているのに、なぜあなたの弟子たちが断食をしないのですか。」(マタイ:18)と人々から聞かれたことに対して、ユダヤでの婚礼のしきたりの譬えを用いてお答えになりました。
ユダヤの婚礼は、一週間ほど親戚や友人たちが招かれて、花婿、花嫁と楽しい時を過ごしますが、イエス・キリストは、婚宴というこの大きな喜びの席に私たちを招きいれられるためにこられました。ところが、断食は、神の御前に自分の犯した罪を悲しむ心を現わすための行為です。それゆえ、今は花婿であるキリストと喜びを共にする時であるので断食する時期ではないと言われたのです。けれども、キリストはここで、「しかし、彼らから花婿が取り去られる日が来ます。その日には断食をします。」(20)と、悲しむべき受難の時が訪れることもまた予見されていました。
キリストによる新しい世界の訪れ
バプテスマのヨハネは、ヨハネの福音書を見れば、キリストを「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」(ヨハネ1:29)と言っています。先週もマルコの福音書から、中風の人に向かて、「子よ、あなたの罪は赦された」(2:5)と、大胆に罪の赦しを宣言された事を知りました。そして、3年半後には、十字架上で全人類の罪の身代わりの死を受けて下さったことにより、救いを完成して下さいました。これにより、神と人との間にあった隔ての幕が取り除けられ、私たち人類に神に通じる新しい生きた道が開かれたのです。「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、全てが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)。
キリストによってもたらされた新しい命は、人間をがんじがらめにしていた罪の負い目から解放し、もはや、古い戒律に縛られることは無用であることを、ここでは、新しい布切れを古い衣の継ぎ当てにする譬えで教えられています。
「だれでも、真新しい布切れで古い衣に継ぎを当てたりはしません。そんなことをすれば、継ぎ切れが衣を新しいものが古いものを引き裂き、破れはもっとひどくなります。」(マルコ2:21)と。
新しいぶどう酒は新しい皮袋に
「まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒も皮袋もだめになります。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるものです。」(2:22)
また、弾力性のない古い皮袋に、新しいぶどう酒を入れると、発酵力の強さに、弾力性のない古い皮袋は耐えられなくなり破れ出てぶどう酒も皮袋もだめになるように、イエス・キリストからくる新しい命は、古い生き方の中になお閉じ込めておけるようなものではない事を忠告しています。
では、心の中に救い主としてキリストを迎え入れた人の新しい命は、どのような皮袋ともいうべき、生き方をすれば保たれるのでしょうか。それは、キリストにある新しい命は、キリストから来るものを求めるので、今まで世の喜びに浸っていたものの空しさが見えて来て、更にキリストにある霊的なものを慕い求めるようになるので、
1. 教会へ来ることや礼拝が喜びとなります。
2. 聖書を読んで更に深くキリストを知りたいと願い、また祈り求め始めます。
3. キリスト者同士の交わりを求めます。
このようにして、これまで心惹かれていたこの世の楽しみを重くみなくなり、神様の事に関心が深まりってゆくので、今までの生き方とのギャップも出て来ることでしょう。これらは皆キリストを心に迎え入れた結果、起こることです。ここに逆から入ろうとすると、クリスチャン生活はとても耐えられない。窮屈なお勤め、宗教規律や戒律の遵守であったり、積み重ねのようになってしまいます。そこにはまことの命がありません。真のクリスチャン生活とは、あくまで、内なるいのちから出発して、そのいのちが外に溢れ出て具体的な形(礼拝生活、デボーション、教会生活等)となって現れるものなのです。
この新しいぶどう酒を入れるに相応しい新しい皮袋は、信仰によりどこまでも大きく膨らみもすれば、全くしぼんでしまうこともあります。