2月27日 礼拝メッセージ

「うしろのものを忘れ、前のものに向かって」 

聖書:ピリピ人への手紙3章12-14節

メッセンジャー:高江洲伸子牧師

2022年度、定期予算総会を迎えました。コロナ感染状況により、「文書総会」とさせて頂きましたが、本日から具体的な新年度への備えの時が始まります。
総会議事は、午後のアンケート集計をもって採決されて参りますが、世にあって、霊的存在である教会は、まず、総会礼拝をもって、新年度に備えられなければなりません。
折しも、3月からいよいよ旧牧師館も解体工事が始まります。
2022年度の春は、教会が未来に向かって一歩踏み出す記念の春でもあります。

 旧牧師館解体時期が1か月伸びたことは、私にとりましては、ラッキーなことでした。
昨年の春、長崎から送ったものが半数、そのまま段ボールに保管されたままでしたから、荷物整理の絶好の機会ともされたのです。
 一時有名になった言葉で“Let it go”があります。
日本語では「ありのままで」と訳されていましたが、この言葉の意味は、「手放す」「あきらめる」の方がピッタリなのだそうです。
まさに、この1か月は、私にとって、何を手放すか、また何をあきらめるかが問われました。
何を残すかを考える際、今後、私がどのような生き方をするかに繋がります。
本当に必要なものだけを残さなければ、私の部屋は荷物で埋め尽くされ、今の生活や働きにも差し支えることは目に見えていましたから、本当に必要なものだけを残さなければなりませんでした。

自分にとって、本当に必要なものは何か?
人生の方向性を知る上で、人は誰でも一度はこの課題に向き合う必要があります。
使徒パウロという人は、「ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。」(ピリピ3:13-14)と、言いました。
車の運転席に座り、ハンドルを握ると、フロントガラスの向こうに見える風景を見ながらギアを入れ、アクセルを踏みます。
車は目標に向かって走り出します。
運転席からは、時折バックミラーやサイドミラーを見て後ろや周りの状況を確認はしますが、目は俄然目標に向いていなければなりません。
後を見すぎることは、車の運転にとっては非常に危険です。
教習所の教官が常々言われたことは、「もっと遠くを見なさい!」と言うことでした。
私たちが、今、どこを見ているかは、私たちの未来を決定してゆきます。
使徒パウロは、ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走ったのでした。
 
パウロが目指した「目標」、それは?
パウロは、「私は、キリストとその復活の力を知り、キリストの苦難にもあずかって、キリストの死と同じ状態にあり、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」(10,11)と言っています。
そして、ピリピ3:12では、「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。
ただ捕らえようとして追及しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。」と言うのです。
自分は完全ではなく、今も、更に追い求めていると言うのです。
「使徒パウロでさえそうだったのか」と、思いたくなる言葉ですが、考えてみてください。
子どもの完全さは、青年、壮年、老年の完全さとは異なっています。
そのように、到達したところから更に完成に向かって行こうとするパウロの中にこそ、熟練さと謙遜さ、そして健全さを見るのです。
16節では、「私たちは到達したところを基準にして進むべきです。」とも言っています。
しかも、それは、神がその求めたものを与えんが為に、追い求めさせておられると、言うのです。
そのパウロは、「自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。
それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。
私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらのものをちりあくただと考えています」(ピリピ3:7,8)と言うのです。
パウロをして、そこまで言わしめた、「キリスト・イエスを知っていることのすばらしさ」とは、どのようなものなのでしょうか?
2022年度、私たちもまた、キリスト・イエスを知ることのすばらしを更に深く体験させて頂く年とされますように。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次