福音のはじまり 「キリストのバプテスマ」
-マルコの福音書に学ぶ- ②
聖書:マルコの福音書1章9-15節
メッセンジャー:高江洲伸子牧師
マルコの福音書は、バプテスマのヨハネの「荒野の声」で始まり、続いて、イエス・キリストが登場。ヨハネからバプテスマを受けます。
なぜ、御子であるキリストが、人間ヨハネから洗礼を受けられなければならなかったのでしょうか。キリストもまた、罪から洗い清められる必要があったのでしょうか。
この事に対して、へブル4:15には、「罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。」と書かれているところから、決して罪があったわけではないことがわかります。
バプテスマのヨハネ自身、イエス・キリストが洗礼者ヨハネのもとに来られた時、「私こそ、あなたからバプテスマを受ける必要があるのに、あなたが私のところにおいでになったのですか」(マタイ3:14)と、キリストに洗礼を授けることを躊躇しています。
しかしキリストは、「今はそうさせてほしい。このように正しいことをすべて実現することが、わたしたちにはふさわしいのです。」(マタイ3:15)と言われたので、「ヨハネは言われたとおりにした」とマタイは書いています。それ故、私たちもまた、キリストに倣って、バプテスマを受けるのです。
キリストがヨハネから洗礼を受けられてから三年半後、十字架の死と葬りの後、復活されたキリストは、「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。」(マタイ28:19,20)と言って、天に帰って行かれました。
そのキリストの言葉に従って、信じた者たちはバプテスマを受け、キリストの弟子として歩み始めます。
初代教会ではキリストの昇天後も、このキリストの教えを忠実に守り、洗礼式を行っていました(使徒2:40-42)。それは2000年を経た今も変わりはありません。
洗礼者ヨハネは、「私は水であなたがたにバプテスマを授けています。
しかし、私よりも力のある方が来られます。…その方は聖霊と火で、あなたがたにバプテスマを授けられます。」(ルカ3:16)と言っています。
ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、キリストは聖霊のバプテスマを私たちに授けて下さるのです。
ローマ6:3,4に、「キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか」と、書かれています。
「バプテスマ」は通常「洗礼」を表す言葉として使われていますが、元々は「浸る」という意味で、
水に浸ることにより、私たちの罪の犠牲となったキリストの死と一つとされることを象徴し、
古い罪の自分がキリストと共に死に、復活されたキリストと共に新しい命に生きることを形として表わしています。その洗礼式の意味通りの事が私たちに成される時が聖霊のバプテスマ式と言えます。
バプテスマを受ける人は、自分の罪を認めた人です(マルコ7:2—23)。
そして、イエス・キリストを神のひとり子、救い主と信じ心に受け入れた人です(ヨハネ3:16)。
自分自身の弱さを認め、キリストに従ってゆきたいという願いがある人を、キリストの父である神はキリストを通して招いておられるのです。
バプテスマは完成ではなくスタートですから、完全な人に受ける資格があるのではなく、むしろ逆で、
本当に自分の弱さを知った人、認めた人が十キリストと共に生きることを志し表明する場でもあります。
ですから、洗礼式は、人生の卒業式ではなく、入学式です。信仰の一歩を踏み出す時、そこから新しい神の恵みの世界、信仰生涯の1頁が開かれてゆきます。
バプテスマを通らなければ決して味わい知ることのできない神の恵みの世界がそこから始まってゆきます。
けれど、注意しなければならないのは、バプテスマを受けると、苦しみや誘惑から解放されるという思い込みです。
イエス様ご自身洗礼後荒野でサタンの試みを受けられました(マルコ1:12,13)。
けれど試みの山であっても、「御霊はイエスを荒野に追いやられた」(マルコ1:12)と書かれている如く、
そこもまた主の導きの中にあったのです。
ですから、神に身を寄せた者は、いたずらに苦難を恐れるのでなく、むしろ大胆に主にお委ねし、
導かれるまま従ってゆくことによって神は栄光を現わして下さいます。
日々キリストと共に生きる者たちには、神の恵みが伴うので、その周りにはなぜか世のものでない天の輝きがあるのです。