10月31日 礼拝メッセージ

「マケドニア教会の恵み」

聖書:コリント人への手紙 第二8章1-7節

メッセンジャー:高江洲伸子牧師

秋真っ只中、天高く馬肥ゆる秋、食欲の秋です。
食欲と言っても、空腹感があっての満腹感、
また、満足感に繋がってもいる様ですから、やはり、体を動かしながら、健康な空腹感を得る工夫は大切かもしれません。
コリント人への手紙第二8章において、使徒パウロは、コリント教会の人たちにマケドニア教会に与えられた神の恵みについて語ります。
その経緯は、パウロは予てから、ユダや教徒から弾圧され、貧しさの中にあったエルサレム教会への援助を諸教会にお願いしていました。
それは、ユダや人クリスチャンと異邦人クリスチャンが一つの民になれるチャンスとしてもパウロは捕らえていたのです。
そのようなパウロの献金依頼に進み出たのが、試練と貧しさの中にあったマケドニア教会(Ⅱコリ8:11 )とアカイア州の人たちだったのです。

真の豊かさ
2節でパウロは、「彼らの満ちあふれる喜びと極度の貧しさは、苦しみによる激しい試練の中にあっても溢れ出て、
惜しみなく施す富となりました。」とマケドニア教会の恵みを紹介していますが、激しい試練と窮乏の中にあっても、
同じように窮乏の中で苦しんでいる兄弟を覚えて、その献金に喜んで応えようとするマケドニア教会の人たちの姿の中に、
使徒パウロは真の豊かさを見出しているのです。それは、金銭的なことだけを意味していません。
真に生きた信仰に与り、「満ち足りた喜び」に生きている時、人は、環境状況を超えて、
自ずと喜んで神様と周りの人の必要に応じようとします。その生き様が、まわりの人をも豊かにしてゆき、そこに神の恵みが現れる、そうした姿を使徒パウロはマケドニア教会の人々の中に見たのでした(2節)。

献金は奉仕の業
更に、彼らは、「自ら進んで、力に応じて、また力以上に献げ」(3節)
この業に参加したとパウロは言っています。
4節では、「聖徒たちを支える奉仕の恵みにあずかりたいと、大変な熱意をもって私たちに懇願しました。」とも書かれています。
彼らが実際にしたことは、エルサレム教会を援助する献金の申し出だったのですが、マケドニア教会の人たちは、今助けを必要としているエルサレム教会の為に何かできることをしたいと申し出たこのことは、彼らにとっては、奉仕を願い出たこととなんら変わらない状況だったのです。奉仕をする上で一番大切な心掛けは、まず、祈ることです。
そして、自分でもできることがあればと、主と主の教会にその思いを願い出ることですが、マケドニアの人たちには、今献金を必要としているエルサレム教会の為に自分たちができること、それが献金たったのです。当に、それこそ主の奉仕の業に他なりません。
余りものでなく、全てに勝って、彼らは、神と神の国の必要の為に、悪条件の中からも、喜びをもってささげたのでした。これこそが献身であり、奉仕です。
この箇所は、原文には献金とか募金を直接現わすことばは使われていず、「カリス」(恵み、豊かさ、奉仕)という言葉が使われています。ここではカリスを新共同訳は「慈善」とし、口語訳は「施し」という言葉を使っていますが、新共同訳は、原意のまま「恵みのわざ」と訳しいています。
これは、何を意味しているのでしょうか。
それは、マケドニア教会の人たちの中には、貧しい人たちを憐れんでそうしたという気持ちを少しも抱くことなく、
この業に参加していたということです。
神のめぐみの業に自分たちも加わりたいという願いと祈り心でエルサレム教会の援助に参加したというのです。
パウロはこの献金こそ恵みであり、その行為が豊かさであり、奉仕であると言うのです。

奉仕の祝福
さらに、パウロは13章11-13節で、奉仕の祝福について、
「あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、すべてを惜しみなく与えるようになり、
それが私たちを通して神への感謝を生み出すのです。なぜなら、この奉仕の務めは、聖徒たちの欠乏を満たすだけでなく、
神に対する多くの感謝を通してますます豊になるからです。この務めが証拠となって、
彼らは、あなたがたがキリストの福音の告白に対して従順であり、
自分たちや、すべての人に惜しみなく与えていることを理解して神を崇めるでしょう。」と述べています。
美味しい食卓は空腹から始まるとすれば、私たちの信仰生活の極上の美味しさもまた、
極度の貧しさからも多くの人を富ませてゆくところにあるとも言えます。

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