「あなたのイサクを献げなさい」
聖書:創世記22章1-14節
メッセンジャー:高江洲伸子牧師
旧約聖書に出てくるヨブは、全てを失う大変な苦悩を敬虔し、その苦しみの中で、「神のかたち」へと変えられていきました。そして、新たに神様から財産など祝福の賜物を受け取るのですが(ヨブ記42:12-13)、神学校アウトリーチで講師の鎌野直人師は、「自分が手に入れたものは、再度、失ってしまう可能性があることをヨブは知ってしまった。どれほど多く補填されたとしても、受け取ったものがいつまでも保たれる保証は、一切ない。しかし、ヨブはすべてを承知の上で神からの賜物を受け入れた。」と、記述しています。私たち人間は、無ければ無いで何とかできたものを、一度、あったが故に失ってしまう悲しみを知ると、同じ辛苦を受けたくないので、再び受けることに躊躇する事があります。けれど、試練を通して真の自由を得たヨブは、その悲しみに再び遭遇するかもしれない、その事をも含めて神様から来るものを受け入れたというのです。
試練の意味
信仰の祖であるアブラハム夫妻には、奇跡的な神の御業により、90歳 になるサラにイザクが与えられました。ところが、ある日、突然神様から、「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、わたしがあなたに告げる一つの山の上で、彼を全焼のささげ物として献げなさい。」(創世記22:2)と告げられます。
ヨブの試みの時もそうでしたが、アブラハムの時も、彼らが大きな失敗や罪に陥ったので、罰として試みを与えられたとは、どこにも書かれていません。では、一般の人というよりもむしろ義人として生きている人たちに、なぜ、このような試練が臨むのでしょうか。
① それは、イエス・キリストの救いを予表する意味がありました。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
(ヨハネの福音書3章16節)
人を創造し、人を愛された神が、神のみ思いとは全く反対の方向、滅びに向かう人類に対して抱いているみ思いを、単なる被造物でしかない私たち人間もまた、イサクの燔祭を通して、幾らかでも知ることができます。恐らく、私たちは、アブラハムのように、子どもを燔祭としてささげるという「行為」はできないでしょう。けれど、天の父は、その一人子の命と引き換えにしてまで、罪を慕い、罪を愛する者(ヨハネ3:19)をも救わんがために、罪を贖う燔祭の子羊として、御子を十字架につけられたのでした。イサクの燔祭はまさに、その予表でした。
② それは、霊の父がご自分の聖さにあずからせようとする訓練の時でした。
「これらの出来事の後、神がアブラハムを試練にあわせられた」(1)。信仰の試練は誰にも平等に臨みます。けれど、それは神の御計画の一部なので、いたずらに心配するのは、神様に対して失礼かもしれません。アブラハムも「これらの出来事の後」、即ち、イサクの燔祭の試練を受けるに相応しく備えられた後、み言葉は臨みました。
「銀にはるつぼ、金には炉、人の心を試すのは主」(箴言17:3)。では、試練を通して何が試されるのでしょうか。それは、私たちと神様との間に入り込み、微妙に神様との交信を妨げているものです。
神様と自分との間に、「物」が入ると、それは「むさぼり」になり、神様と自分との間に、「自分」が入ると、それは「高ぶり」になります。また、神様と自分の間に、「人」が入ると、それは「偶像」になります。神様は時々こうした雑居物を試金石でもって試される、それが神様から来る試練です。それだけでなく、親が子を訓練するように、愛のご訓練の時をも備えられるのですが、そのご訓練の目的は、神の聖さに与らせる為であると、み言葉は記しています。
「肉の父はわずかの間、自分が良いと思うことにしたがって私たちを訓練しましたが、霊の父は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです。」(へブル人への手紙12:10)
今朝、信仰生活を振り返って、自分にとってのイサクは何であったか、また、神様と、自分との間に立ちはだかっていたものが何であったかを確認し、重たくなった携帯のゴミが除去され通信機能が回復される如く、主との交信を妨げているものが取り除かれますように。全ての回復の源である十字架を仰ぎましょう。