「比較ではなく」
聖書:ヨハネの福音書21章20-37節
メッセンジャー:高江洲伸子牧師
ペテロとヨハネとイエス様
20節、ここからの登場者は、イエス様とペテロ、そしてこのヨハネの福音書を書いたヨハネ。
ヨハネは自分を「主が愛された弟子」と言って憚らない。
ペテロは主から「私を愛しますか」との三度の問いかけに、
「私があなたを愛していることはあなたがご存じです」と、主の召命に応答する。そのペテロにイエス様は、
「あなたは若い時には、自分で帯をして、自分の望むところを歩きました。しかし年をとると、
あなたは両手を伸ばし、他の人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます。」(18)と告げられる。
これは、ペテロのさいごは、縛られて処刑場に連れていかれることが予告された言葉です。
その上で尚且つ、主は、「あなたはわたしに従いなさい」(19)と御声をかけられたのです。
この時のペテロの思いはどの様だったでしょう。
彼は妻帯者でしたから、「では、妻や私の家族はどうなるのでしょう」と問い直してもおかしくない状況。
けれど、ペテロが一番に主に問うたのは、側にいる「主に愛された弟子」と称するヨハネの事だったのです。
「主よ、この人はどうなのですか」(21)と尋ねるペテロに主イエスは、
「わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがありますが。
あなたは、わたしに従いなさい。」(22)とだけ答えられたのでした。
他者との比較でなく
信仰生活は時々レースに譬えられる。へブル人への手紙12:3は、
「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。」と記し、箴言29:25では、「人を恐れると罠にかかる。
しかし、主に信頼する者は高い所にかくまわれる。」とある。
私たちの目を目標から逸らさせる最大の「誘惑」は人から来ていることを知らなければならならない。
目標のイエス様が見えていない時は、それ以外のものに目が向けられている。
その事に気づくや否や、直ちに主を仰ぐ、すると、眼前に天が開かれ、主は恵みの高みに引き上げてくださる。
へブル12:2では、「一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競争を、
忍耐をもって走り続けようではないか。」とも書かれている。
<口語訳は、「かなぐり捨てて」の一句を挿入。>
生きている限り、人との関係から逃れることはできない。
それは言葉となって、良くても悪くてもまとわりついてくる。
特に、比較の言葉はプライドに働きかけて、神第一の基準が人に置き換えられることがあるので、注意したい。
ペテロは、自分に語られた主のことばに対して、側にいたヨハネを指して、
「この人はどうなのですか」と尋ねた。このペテロの言葉は、友人ヨハネの将来を心配して尋ねたものともとれるが、
それが、善き思いからであっても、あるいは自分とヨハネの立場や賜物や将来を比較して出てきたものであったとしても、
私たちは、他者との比較の中で何かを決定するのでなく、ただ、自分に語られる主のみ言葉にのみ応答してゆく時、
真に平安と希望をもって主の導きに従ってゆくことができる。
ペテロは、かつて、主イエスが十字架の御苦難について語られた時、
そのような事は決してあってはならないと、主イエスを「いさめ始めた」(マルコ8:32)。
そのペテロに主は、「下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人の事を思っている」(〃33)と、きつく戒められたことを思い起こし、
「それがあなたと何の関わりがあるのか、あなたは私に従ってきなさい」(22)と、
自分に向かって語られる主のみ言葉に、脇目も振らず応答するものでありたい。