8月22日 礼拝メッセージ

「四つの種」

聖書:マタイの福音書13章18-23節

メッセンジャー:高江洲伸子牧師

種の種類や品質は全部同じなのですが、落ちたところが違っていたので、成長が大きく違ったのでした。
当時のイスラエル地方の人たちは、袋に入れた種をパア~と蒔くという蒔き方を致しましたでした。
そこで、種はいろんなところに散らばって落ち、大枠、4種類の土地に落ちたと考えてください。

道端に落ちた種がありました。
種が落ちるとすぐに、お腹を空かせた鳥がそれを見て、サア~と飛んで来て、種を食べてしまいました。
また、道端に落ちた他の種は、道行く人たちや動物に踏まれてしまいました。
種の中には成長して実を実らせるエッセンスが詰まっていて、不思議な力が内蔵されています。
けれど、道端に蒔かれた種は根や芽がでることもなく、鳥に食べられたり、人や動物が踏みつけてダメになってしまいます。
ここで、イエス様が言われた「種」とは「御国のことば」(19)即ち「福音」のことです。
福音の種が蒔かれても、道端の様な心では、豊かないのちの要素が詰まっていても、
偏見や、自我の誇りや、不道徳、自分の考えで踏み固められてしまって、み言葉の種は、聞いた人の心の中で、
根を張る余地がないまま、はねのけられてしまいます。

岩地に落ちた種がありました。
岩地は、岩の層の上に土が薄く被さっているだけですから、根が少し出ても、深く張る事ができないので、
水分を蓄えることができず、日が昇ると、水切れですぐに枯れてしまいます。
そのように、岩地の心の人は、み言葉を聞いた時は、喜んで受け入れますが、
困難や迫害がおこるとみことばは忘れられ、信仰も失われてしまいます。
大岩が邪魔をして、信仰の根が張る事ができないからです。
聖書にでてくる大勢の群衆がこのような人達と言えます。

いばらに落ちた種がありました。
いばらに落ちた種とは、雑草の根がはびこっている土地のことです。残念なことに、
私たちの教会の周りの土地は、どうもこの「いばらの土地」のように思えてきます。草取りをして、
花を植えても、地面の下側にしっかりと笹の根がはびこっていて、プランターに植えた花までも、チョット油断していると、
笹だけでなく、雑草やつる草が周りを覆って、花の成長を止めてしまいます。
心がいばら状態だと、福音を受け入れて、信仰生活も落ち着いたと思える頃になって、
この世の心遣い、思い煩い、また、富の惑わしという根が待ち構えていて、やがて覆い被さり、
信仰が成長し実を結ぶ前に、息の根を止めてしまいます。

良い地に落ちた種がありました。
保水性があり、水はけよく、良く耕された土地のことです。
そこに種が落ちると、すくすくと伸びて、やがて沢山の実が実ります。
良く耕やされた心は、柔らかい心のことです。
み言葉聞くと、柔軟にその意味を自分にあてはめて考えることができるので、
み言葉の真意を悟ることができます。神さまのことばをあるがままに受けられる柔らかさがあるのです。
イエス様は言われました。「良い地に蒔かれたものとは、みことばを聞いて悟る人のことです。
本当に実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます」(23)と。
耕された良い地の心とされるにはどうすれば良いのでしょう。
それは、自分の失敗や過ちを認めるところから始まります。

私たちは自分で自分の心の土地を耕すことはできません。
第三者によって、手をかけて頂かなければ、私たちの心の土壌は変わりません。
語りかけて下さる主のみことばと向かい合って、心から悔い改める時、
どのような心の状態でも、ご聖霊によって耕されて、柔らかくされてゆきます。
みことばを聞いて、悔い改める人は、本当に実を結びます。
その人の人生に実を結ばせるだけでなく、世界に実を結ばせてゆきます。これが福音のメッセージです。

 
最後に、イエス様が引用されたイザヤ書6:9-10のみことばを振りましょう。
「『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟ることはない。見るには見るが、決して知ることはない。
この民の心は鈍くなり、目は閉じているからである。彼らがその目で見ることも、耳で聞くことも、心で悟ることも、
立ち返ることもないように。そして、わたしが癒すこともないように。』(14-16)
誰か特定の人に語られているのではありません。
危機的な状況下にある、全世界の人が、
今、このみ言葉の前に真実に向かい合わなければならない時を迎えていると思えてくるのです。

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