8月15日 礼拝メッセージ

「待っている父と帰ってきた息子」 

聖書:ルカの福音書15章11-24節

メッセンジャー:高江洲伸子牧師

ルカの福音書15章に書かれている三つの譬え話の共通しているテーマは、神様の失われたものに対する愛でした。
今日は、三番目の譬え話から、自分の前を立ち去って行った息子に対する父の思いを通して、
天の父が私たち一人一人に対して抱いている愛がどのようなものであるかを知りましょう。 
(始めに、子どもたちと一緒に、放蕩息子の紙芝居をご覧ください)

想像を超える父の息子への思い
この物語の父親は「神様」で、息子は「私たち」のことを指しています。
この物語には驚くべき点がいくつかあります。まず、息子が父親を前にして、
「『お父さん、財産のうち私がいただく分を下さい』」と、あきれた申し出をした時の父親の態度です。
「父は財産を二人に分けてやった。」(12)と書かれていますが、お父さんは何も言わずにお金だけ渡したのでしょうか。
譬え話にしても普通では考えられない事柄です。

次に、「ところが、まだ家までは遠かったのに、
父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。」(20)という所から、
父親は息子が去って行った方向を目を凝らして毎日見ていたかの様に、
息子の帰って来る姿を見つけると、走って迎えに行っています。
そして、首を抱いて口づけをしたと書かれていますが、怒りのようなものはなかったのでしょうか?
何というお父さんでしょう。(これは、親になった人には共感できる部分かもしれません)

しかも、「もう、息子と呼ばれる資格はありません。」(21)と言っている息子に、
この父親は、しもべたちに命じて、「急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。
手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。」(22)と言っています。
最上の衣も、靴もそれなりに意味深いことですが、特に当時の「指輪」は印鑑を意味していて、
父の財産を自由にできる資格が得られたということです。
財産を持ち崩した危ない息子に今風に言うならば、お父さん所有のキャッシュカードを与えるような出来事です。
一般的には全く考えられない話です。なぜ、イエス様がこの譬えを話された真意は何だったのでしょう?
失われた一匹の羊の大切さ、失くしたドラクマ銀貨が見つかった時の喜びに続く、放蕩息子の帰還とその喜び。
これほどまで気前の良いお父さんの譬え話をされる必要があったのでしょうか。
少し、過剰な気がしないではありません。けれど、その途方もない出来事に更に勝って、
天の父なる神様は、神に背を向けて我欲追求に走る人類に、財産どころか、その一人子の命をも惜しみなく与えられたのです。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。
それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネの福音書3:16)
これは、通常の知識で理解できる範囲を超えています。

母鳥の死と神の愛
ある時、広大な野原が火事になりました。
火が鎮火して一人の人が焼け野原を歩いていました。多くの動物の死骸もあちらこちらに見られます。
その人は、逃げ遅れた動物の死骸を悲しそうに見ていました。
すると、焼け焦がれた草木が少し動いたように思えたので、そっと棒切れでその焼けた部分を動かしてみました。
すると、親鳥の死体の下から、小さなひな鳥が出てきたのです。
火の手が追ってくる中、親鳥は自分が飛び立つことをしないで、必死でひな鳥の上を翼を広げて覆い、
自分の命と引き換えにひな鳥の命を守ったのでした。
真面目に働いていた兄は父親があまりに弟に良くすることに不満でした。
不満一杯の兄に父は答えています。「おまえの弟は死んでいたのに生き返り、
いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。」(32)と。

クリスチャン詩人の八木重吉は、次の様な詩を書いています。
「陽二よ なんという いたずらっ児だ /  陽二 おまえは 豚のようなやつだ
ときどき うっちゃりたくなる / でも陽二よ /  
おとうさんはおまえのためにいつでも命をなげだすよ」
天の父もまた、うっちゃりたくなるほど愚かで、
清い聖なる神様の御前から離れて、世の楽しみに執着する豚のような私の為、
全ての人の罪の身代わりにご自身の命に等しい御子の命を十字架に架けられて、
私たちが新しい神の命に与る者にして下さいました。
この天の父の一人一人に注がれている捨て身の愛が知られますように‼

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