「いなくなった羊、なくした銀貨」
聖書:ルカの福音書15章4-10節
メッセンジャー:高江洲伸子牧師
「それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、神のみ使いたちの前には喜びがあるのです。」ルカ15:10
ルカの福音書15章には三つの譬え話しが書かれていますが、全てに共通して「失われたもの」が出てきます。
最初は「羊」、次が「銀貨」そして、「人」です。今朝は、「羊」と「銀貨」の譬え話しにスッポトライトを当ててみましょう。
いなくなった羊の譬え(4-7)
人には一人一人個性があります。のんびりした人、せっかちな人等、それは百人百様。
では、羊の特性はどうでしょう。まず、羊は集団で行動します。
のんびりと野原で草を食べながらゆったりとしているように見えても、一匹の羊が突然走り出すと、
何の理由がなくても、そこにいた羊たちは後ろからついて走り出すのだそうです。
また、羊の耳は大変良くて、一度聞いた声は忘れないのだそうです。
目は、見える範囲は広くても、視力は悪く近視眼的で、悪い動物が近づいてきてもわからないことが多く、
羊を見守る牧羊犬や羊飼いなしには羊は生きていけないのだそうです。
ですから羊たちは羊飼いが側にいて、初めて安心して暮らしていけるので、
自分を守ってくれる羊飼いには、とても従順なのだそうです。
けれど、群れから離れてしまった羊は、不安で縮こまり、
羊飼いが見つけて連れて帰ろうとしても、固まって動かなくなってしまう。
そこで、羊飼いは、恐怖心の中にある羊をそのまま肩に担いで家に戻っくることにもなるようです。
イエス様は、そうした背景をもとに、「見つけたら、喜んで羊を肩に担ぎ、家に戻って、
友だちや近所の人たちを呼び集め、
『一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うでしょう」(5,6)と言われました。それは、
「それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、
悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。」(7)と、
神の御前に失われた一人が返って来る時の天の喜びが、
どれほど大きなものかを知らせたかったので、この譬え話をされたのでした。
なくした銀貨(8-10)
「また、ドラクマ銀貨を10枚もっている女の人が、その一枚をなくしたら、
明かりをつけ、家を掃いて、見つけるまで注意深く捜さないでしょうか。」(8)
女の人が、銀貨10枚でできている首飾りをもっていたと想定してみてください。
ある日見ると1枚足りません。そこで、「明かりをつけ」て、周りを見回し、それから机の下も見ましたが見当たりません。
さらに、「家を掃いて…注意深く」捜しました。そうして、やっと見つけた時の喜び、
それは、「女友だちや近所の女たちを呼び集めて、
『一緒に喜んでください。なくしたドラクマ銀貨を見つけましたから』と言うでしょう。」(9)
と言いたくなる程の喜びだったのです。
ドラクマ銀貨とは、結婚する時に、花嫁が持参金のようにもっていくもので、
10枚揃っていないと、本来の価値が認められません。
そこで、失くした1枚を見つけた時の喜びは、
思わず出ていって友だちやご近所の人たちに知らせたくなるほどの喜びであることを知らせ、
イエス様は、失われた一人が、再び神のもとに戻ってくる時の神様の御思いと、
また、その真価がどれほどのものであるかを、この事を通して伝えて下さったのです。
羊飼いは、いなくなった羊を捜し求めて、山野に出て行き、ドラクマ銀貨の一枚をなくした婦人は明かりをつけて捜し、
それでも見つからないので箒で掃いて見つけるまで捜しました。
私たちがトラクト配布をしたり、み言葉の宣教の場に友人や知人を誘い招く時、
その時私たちは、神様の御前から失われた一人を捜し求めている神の羊飼いとされています。
また、聖霊とみ言葉の明かりは、魂と心の内側をくまなく照らし、人の心の内側に潜む神への失望感や傷ついている心、
あるいは他者との比較から来る罪、それらに塞がれて、真の喜びや平和から完全に失われている魂の状態を映し出し、
十字架の癒しと赦しによる救いと聖めへと導きます。
ドラクマ銀貨は本来あった人の手に返され、あるべき所に置かれて、他の9枚と共にその真価が発揮されます。
同様に、私たちの人生もまた、神の御手に握られて、本来居るべき所に置かれて、
丁度、ジグーパズルの最後のワンピースがはめ込まれて1枚の絵が完成するように、
私たちは与えられた人生への完成を見、生きる真の意味と使命を見出すことでしょう。