8月1日 礼拝メッセージ

「二つの家

聖書:マタイの福音書7章24-27節 ※ルカ6:46-48

メッセンジャー:高江洲伸子牧師

企業の拡大成長セミナーで、講師は苦労の数々と、企業を成長させる秘訣を詳らかに語りまし。それを聞いていた人が心配げに言いました。「そこまで全部話してしまうと、ライバルの会社に追い抜かれませんか」。すると、講師は「大丈夫です。聞いてもそれを実行する人は殆どいません」と答えたそうです。

「二つの家」の話は、イエス様が山上の説教のさいごに話された譬え話ですが、珠玉のメッセージが数々語られた末、「聞くだけの人になってはいけません」と、締め括られたのです。

ヤコブは「みことばを行う人になりなさい。自分を欺いてただ聞くだけの者となってはいけません。」(ヤコブ1:22)と言っています。イエス様も「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」(マタイ7:21)と言われた後、「みこころを行う人」の人生がどんなに堅固なものであるかを、2つの家の譬えを通して私たちに教えてくださったのでした。

では、その2つの家とはどんな家でしょうか?はじめに分かりやすく紙芝居でストーリーを追ってみましょう。

紙芝居「砂の上に建てた家と岩の上に建てた家」

ここで、2つの家の違いについて調べてみましょう。

紙芝居の絵もそうでしたが、見た目には殆ど変わらない家だったとしましょう。岩の上の家も、砂の上の家も、天候が良い時には何も変わりません。チャンと建てられ、良く機能し、見た目にもかわいく綺麗に建てられていたとします。同様に、賢い人もそうでない人も、順調な時には何ら変わりはありません。愚かな人も元気です。よく笑い、人に優しく、気前も良くて、何ら違いは感じられません。

けれど、やがて厳しい試練に見舞われると、その違いがあらわになってきます。

嵐に見舞われる時、賢い人が建てた家は持ちこたえます。倒れません。なぜでし

ょう、それは、「岩の上に土台が据えられて」(25)いたからです。けれども、愚か

な人が建てた家は重大な欠陥がそこで露わになってきます。そこには、堅くて

頑丈な土台がないために「倒れてしまい・・・しかもその倒れ方はひどいも

の」(27)となったのです。

なぜそのようになったのでしょう。両者の違いは何だったのでしょう。愚かな

人は家の土台を「砂の上」(26)に据えました。どうしてでしょう。手っ取り早いからです。じっと待ったり考えていません。大切な家を建てるのですから、将来起こるかもしれない色々な場合を想定し、慎重に場所を選ぶべきでしたが、この人は手っ取り早い「砂の上」(26)を選びました。けれども、賢い人は、じっくり考え、時間がかかっても忍耐強くコツコツと掘り下げて、しっかりとした岩の上に土台を据えたのでした。砂地を掘るのはそんなに力が要りません。サックサックと気持ち良く掘れたことでしょう。けれど、岩に土台を建てるためには、砂地の何倍も労力が必要でした。

私たちの人生も、表面的に事を終わらせ、自分にとって不都合なものを避けてゆく人生もあれば、自分の生き方を振り返り、胸に手を当て、「本当に私はこれで良かったのだろうか」と、自分を深く掘り下げてゆく人生もあります。だからと言って、砂の上に家を建てた人の家も、その人なりに快適な住み心地だったかもしれません。ただ、土台がまずかったので、嵐が打ち付けるともろくも崩れ去ってしまったのでした。ここで大切なことは、土台です。

 私達は人生の土台をどこに据えているでしょう。賢い人が建てた家も、愚かな人が建てた家も、一見変わりなく見えます。けれど人生の嵐に見舞われる時、その違いは出てきます。

主イエスは、すばらしいメッセージを語られたさいごに、「ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。」(24)と言われました。また、「主よ、主よ」と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天の父のみこころを行う者が入るのです。」とも仰られました。私たちは、誰でも平等に人生のさいごの時を迎えますが、その時、私たちは自らの家の存在がどのようなものであったかを自ら知ることになるでしょう。

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